古代〜中世(ギリシャ・ローマ・中国王朝・イスラーム) ── 問題
基礎
- 次の説明にあてはまる中国の王朝はどれですか。 「九品中正による官吏登用が始まり、門閥貴族の地位が固定した」 (ア 魏(三国時代) イ 宋 ウ 唐 エ 元 undefined 隋)
- ソロンの事績の説明として正しいものはどれですか。 (ア 財産額に応じて参政権を段階づける財産政治を行い、債務奴隷を禁止した イ メッカで啓示を受けたのちメディナに移り(ヒジュラ)、アラビア半島をイスラームのもとに統一した ウ 民会を最高機関とするアテネ民主政を完成させ、デロス同盟の資金でパルテノン神殿を再建した エ ミラノ勅令でキリスト教を公認し、ニケーア公会議を開き、コンスタンティノープルに遷都した undefined アイユーブ朝を開き、十字軍からイェルサレムを奪回した)
- 古代ギリシャに関する説明として妥当なものはどれですか。 (ア アテネはペロポネソス戦争でスパルタに勝利し、デロス同盟の盟主としてギリシャ世界の覇権を確立した イ ペイシストラトスは陶片追放の制度を定めて僭主の出現を防ぎ、アテネ民主政の基礎を築いた ウ スパルタは商業を重んじる開放的なポリスで、市民の多くが海外との交易に従事した エ カイロネイアの戦いでギリシャ連合軍はマケドニアを破り、ポリスの独立を守った undefined ペルシア戦争のサラミスの海戦では軍船の漕ぎ手として無産市民が活躍し、その後のアテネで無産市民の発言力が高まった)
- 中国の王朝に関する説明として妥当なものはどれですか。 (ア 隋の煬帝は科挙を廃止して九品中正を復活させ、門閥貴族の支持を得て長期の安定をもたらした イ 秦の始皇帝は全国に郡県制を施行し、度量衡・文字・貨幣を統一したが、秦は始皇帝の死後まもなく滅んだ ウ 宋の太祖(趙匡胤)は武断政治をとって節度使の権限を強め、北方民族への軍事的な優位を確立した エ 前漢の高祖(劉邦)は郡県制を全国に施行し、諸侯王の封建を一切認めなかった undefined 唐の太宗は均田制を廃止して両税法を導入し、貞観の治と呼ばれる安定期を築いた)
標準
- 古代〜中世の制度について、封建制(西ヨーロッパ)の説明として正しいものはどれですか。 (ア 主君が家臣に一方的に忠誠を求める片務的な関係で、家臣が義務を怠っても主君の義務は失われなかった イ 主君が家臣に封土を与えて保護し、家臣が主君に軍役などで応える双務的な契約関係で、荘園では領主が農奴を支配した ウ 教皇が国王に領土を貸し与える制度で、国王は教皇に十分の一税を納める義務を負った エ 都市の商人が領主から自治権を買い取る制度で、農奴は都市に住むと同時に自由身分になった undefined 国王が全国の土地を所有して各地に官僚を派遣する中央集権的な制度で、農民は国家から土地を支給されて税と労役を負い、領主は存在しなかった)
- 次の出来事が起こった年はどれですか。 宋の成立 (ア 1096 年 イ 800 年 ウ 960 年 エ 1077 年 undefined 750 年)
- 古代ローマに関する説明として妥当なものはどれですか。 (ア 五賢帝時代の最後のトラヤヌス帝のときに帝国の領土は最大になった イ ローマ帝国はディオクレティアヌス帝のときに東西に分裂し、西ローマ帝国はその直後に滅亡した ウ カエサルは元老院からアウグストゥスの称号を受けて元首政を始め、共和政を終わらせた エ グラックス兄弟は大土地所有を促進して属州からの穀物の輸入を増やす改革を行って成功し、中小農民の没落を食い止めて共和政を安定させた undefined ポエニ戦争後、属州からの安価な穀物の流入と長期の従軍によって中小農民が没落し、奴隷を使う大農場(ラティフンディア)が広がった)
- キリスト教とローマ帝国の関係に関する説明として妥当なものはどれですか。 (ア キリスト教は五賢帝時代に国教とされ、ローマの平和を支える精神的な支柱になった イ ディオクレティアヌス帝はミラノ勅令でキリスト教を公認したが、コンスタンティヌス帝は大迫害を行った ウ テオドシウス帝はキリスト教を公認したが国教化はせず、国教化は西ローマ帝国滅亡後にゲルマン人の王が行った エ コンスタンティヌス帝はミラノ勅令でキリスト教を公認し、テオドシウス帝がキリスト教を国教として他の宗教を禁じた undefined ニケーア公会議ではアリウス派が正統とされ、アタナシウス派は異端として帝国外に追放された)
- 唐の政治と社会に関する説明として妥当なものはどれですか。 (ア 安史の乱ののち均田制・租庸調・府兵制は維持できなくなり、両税法と募兵制に転じ、節度使が各地で自立して唐の支配は弱まった イ 安史の乱は唐の初めに起こった農民反乱で、これを鎮圧した李淵が唐を建国した ウ 唐は郷挙里選によって官僚を登用したため、地方長官の推薦を受けた門閥貴族が官職を独占し、科挙が始まるのは唐の滅亡後の宋になってからだった エ 黄巣の乱は唐の建国直後に起こり、太宗がこれを平定して貞観の治を始めた undefined 唐は周辺諸国との交流を禁じる海禁政策をとり、都の長安に外国人が住むことはなかった)
- イスラーム世界の成立に関する説明として妥当なものはどれですか。 (ア ウマイヤ朝はシーア派の王朝で、アリーの子孫だけをカリフと認めた イ 正統カリフ時代にイスラーム軍はトゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国を破り、ガリアの大部分を支配した ウ ムハンマドの死後、カリフは当初選挙で選ばれたが(正統カリフ時代)、ウマイヤ朝以降は世襲となった エ ヒジュラとはムハンマドがメディナからメッカへ移ったことをいい、この年がイスラーム暦の元年とされる undefined アッバース朝はコルドバを都とし、イベリア半島を中心に栄えた)
- 中世ヨーロッパに関する説明として妥当なものはどれですか。 (ア マグナ・カルタはフランス国王フィリップ 4 世が三部会の要求を受けて発布した文書である イ 教皇のバビロン捕囚とは、教皇がイスラーム勢力に捕らえられてバグダードに移された事件をいう ウ カノッサの屈辱では、聖職叙任権をめぐって教皇グレゴリウス 7 世に破門された皇帝ハインリヒ 4 世が、雪の中で教皇に謝罪して破門を解かれた エ 十字軍は聖地イェルサレムの回復に成功して以後 200 年間これを保ち、教皇の権威は最高潮に達した undefined カールの戴冠によってフランク王国はただちに東西に分裂し、東フランク王国のオットー 1 世がその場で皇帝の冠を受けて神聖ローマ帝国が始まった)
発展
- 宋・元・明に関する説明として妥当なものはどれですか。 (ア 明は一条鞭法によって税を米と労役で納めさせ、それまでの銀納を廃止した イ 明の洪武帝は即位の直後に鄭和に南海遠征を命じ、東南アジアからインド洋を経てアフリカ東岸に至る諸国との朝貢関係を築き、海禁政策を廃止した ウ 元は科挙を重視して漢人官僚を優遇し、モンゴル人は政治から退いて商業に専念した エ 宋は文治主義をとって節度使の権限を抑え、科挙に殿試を加えて皇帝が官僚を直接選ぶしくみを整えたが、軍事力は弱く北方民族に銀や絹を贈って和平を保った undefined 宋は靖康の変で遼に都の開封を奪われ、江南に逃れて臨安を都とする南宋となった)
- 次の出来事を古い順に並べたものとして正しいものはどれですか。 A カールの戴冠 B ヒジュラ C ビザンツ帝国の滅亡 D 西ローマ帝国の滅亡 E 第 1 回十字軍 (ア D → A → B → E → C イ B → A → D → E → C ウ D → B → E → A → C エ D → B → A → E → C undefined B → D → A → E → C)
- イスラーム世界と周辺地域の関係に関する説明として妥当なものはどれですか。 (ア イスラーム世界はギリシャの学問をアラビア語に翻訳して継承し、それが 12 世紀にラテン語へ再翻訳されて西ヨーロッパの学問の復興を促した イ アッバース朝はタラス河畔の戦いで宋の軍を破り、この戦いを通じて火薬の製法が西方に伝わった ウ ファーティマ朝はスンナ派の王朝としてバグダードのカリフを支持し、アッバース朝の一部として統治した エ セルジューク朝はビザンツ帝国と同盟して十字軍を迎え撃ったが敗れ、続くアイユーブ朝のサラディンは講和によってイェルサレムを十字軍に明け渡した undefined オスマン帝国はマムルーク朝によって滅ぼされ、コンスタンティノープルはビザンツ帝国の手に戻った)
古代〜中世(ギリシャ・ローマ・中国王朝・イスラーム) ── 解答
基礎
- ア 魏(三国時代) 答え:魏(三国時代)。王朝は「統治のしくみ ── 代表君主 ── 滅んだ理由」の 3 点で覚える。秦 → 前漢 → 新 → 後漢 → 魏晋南北朝 → 隋 → 唐 → 五代 → 宋 → 元 → 明 → 清。
- ア 財産額に応じて参政権を段階づける財産政治を行い、債務奴隷を禁止した ソロンは「財産額に応じて参政権を段階づける財産政治を行い、債務奴隷を禁止した」。人物は「地域 ── 時代 ── 業績 1 つ」で覚えると、別の人物の業績を当てた誤答に気づける。
- undefined ペルシア戦争のサラミスの海戦では軍船の漕ぎ手として無産市民が活躍し、その後のアテネで無産市民の発言力が高まった ペロポネソス戦争はスパルタが勝利。スパルタは軍国主義的で閉鎖的なポリス。陶片追放を定めたのはクレイステネス(ペイシストラトスは僭主)。カイロネイアの戦い(前 338)ではマケドニアのフィリッポス 2 世が勝ち、ポリスの独立は事実上終わった。
- イ 秦の始皇帝は全国に郡県制を施行し、度量衡・文字・貨幣を統一したが、秦は始皇帝の死後まもなく滅んだ 前漢初めは郡国制(郡県制と封建制の併用)。隋は科挙を始め、煬帝の失政で短命に終わった。両税法は唐後期(780)。宋は文治主義で節度使の権限を抑え、軍事的には北方民族に押された。
標準
- イ 主君が家臣に封土を与えて保護し、家臣が主君に軍役などで応える双務的な契約関係で、荘園では領主が農奴を支配した 主君が家臣に封土を与えて保護し、家臣が主君に軍役などで応える双務的な契約関係で、荘園では領主が農奴を支配した。制度は「誰が・何を・その結果」で押さえ、似た語(公認と国教化・郡県制と郡国制・均田制と両税法)は区別のポイントを 1 つメモしておく。
- ウ 960 年 答え:960 年。地域をまたいで並べると、前 221 秦統一 → 前 27 ローマ帝政 → 313 ミラノ勅令 → 476 西ローマ滅亡 → 589 隋 → 622 ヒジュラ → 750 アッバース朝 → 800 カール戴冠 → 960 宋 → 1077 カノッサ → 1096 十字軍 → 1215 マグナ・カルタ → 1279 南宋滅亡 → 1368 明 → 1453 ビザンツ滅亡。
- undefined ポエニ戦争後、属州からの安価な穀物の流入と長期の従軍によって中小農民が没落し、奴隷を使う大農場(ラティフンディア)が広がった グラックス兄弟の改革は大土地所有の制限をめざしたが失敗。アウグストゥスの称号を受けたのはオクタウィアヌス。トラヤヌス帝は五賢帝の 2 人目(最大版図)。東西分裂は 395 年テオドシウス帝の死後で、西ローマ滅亡は 476 年。
- エ コンスタンティヌス帝はミラノ勅令でキリスト教を公認し、テオドシウス帝がキリスト教を国教として他の宗教を禁じた 大迫害はディオクレティアヌス帝、公認はコンスタンティヌス帝(313)、国教化はテオドシウス帝(392)。ニケーア公会議(325)ではアタナシウス派が正統、アリウス派が異端。
- ア 安史の乱ののち均田制・租庸調・府兵制は維持できなくなり、両税法と募兵制に転じ、節度使が各地で自立して唐の支配は弱まった 安史の乱(755〜763)は節度使安禄山らの反乱で、唐の中期。唐は科挙で官僚を登用(郷挙里選は漢)。黄巣の乱(875〜884)は唐末。長安は国際都市で、日本の遣唐使をはじめ多くの外国人が住んだ。
- ウ ムハンマドの死後、カリフは当初選挙で選ばれたが(正統カリフ時代)、ウマイヤ朝以降は世襲となった ヒジュラはメッカ → メディナ(622)。トゥール・ポワティエ間の戦い(732)はウマイヤ朝の軍がフランク王国のカール・マルテルに敗れた戦い。ウマイヤ朝はスンナ派で、シーア派は反ウマイヤの立場。コルドバは後ウマイヤ朝の都で、アッバース朝の都はバグダード。
- ウ カノッサの屈辱では、聖職叙任権をめぐって教皇グレゴリウス 7 世に破門された皇帝ハインリヒ 4 世が、雪の中で教皇に謝罪して破門を解かれた フランク王国の分裂はヴェルダン条約(843)・メルセン条約(870)。十字軍は最終的に失敗し、教皇権は衰退した。マグナ・カルタ(1215)はイギリス王ジョン。バビロン捕囚(1309〜77)は教皇庁がフランス王の圧力でアヴィニョンに移された出来事。
発展
- エ 宋は文治主義をとって節度使の権限を抑え、科挙に殿試を加えて皇帝が官僚を直接選ぶしくみを整えたが、軍事力は弱く北方民族に銀や絹を贈って和平を保った 元はモンゴル人第一主義で科挙は一時停止。鄭和の遠征は永楽帝。靖康の変(1126〜27)で開封を奪ったのは金。一条鞭法は各種の税を銀にまとめて納める制度。
- エ D → B → A → E → C 西ローマ滅亡 476 → ヒジュラ 622 → カールの戴冠 800 → 第 1 回十字軍 1096 → ビザンツ滅亡 1453。地域をまたいだ順序は年表を横につないで覚える。
- ア イスラーム世界はギリシャの学問をアラビア語に翻訳して継承し、それが 12 世紀にラテン語へ再翻訳されて西ヨーロッパの学問の復興を促した セルジューク朝はビザンツ帝国を圧迫して十字軍のきっかけを作り、サラディンはイェルサレムを奪回した。タラス河畔の戦い(751)の相手は唐で、製紙法が西伝した。オスマン帝国は 1453 年にビザンツ帝国を滅ぼし、1517 年にマムルーク朝を滅ぼした。ファーティマ朝はシーア派で独自にカリフを称した。
受験のしらべ / https://juken-shirabe.com/koumuin/jinbun/zj-05/test/ / 問題は毎回の表示で数が変わります。印刷したものはその一例です。
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