国際政治史②(冷戦の始まりから終結・ポスト冷戦) ── 問題
基礎
- 冷戦の始まりについて、マーシャル・プラン(1947 年)の説明として妥当なものはどれですか。 (ア アメリカが西ドイツ・日本の復興のために行った占領地救済資金による援助で、食料や医薬品を中心に供給された イ アメリカ大統領がギリシャ・トルコへの援助を議会に求めた演説で、共産主義の拡大を封じ込める方針を初めて公式に宣言した ウ ソ連が東欧諸国と結成した経済協力組織で、西側の経済援助に対抗して社会主義圏内の分業を進めることを目的とした エ アメリカ国務長官が発表したヨーロッパ復興計画で、西欧への大規模な経済援助を行い、ソ連と東欧諸国は受け入れを拒否した undefined アメリカ国務長官が発表したヨーロッパ復興計画で、ソ連と東欧諸国も受け入れたため、東西を問わずヨーロッパ全体の復興が進んだ)
- デタント期から冷戦終結期の条約について、SALT II(第 2 次戦略兵器制限交渉、1979 年)の説明として妥当なものはどれですか。 (ア カーターとブレジネフが調印し、直後のソ連のアフガニスタン侵攻にもかかわらずアメリカ上院が批准して発効し、戦略核の上限が定められた イ カーターとブレジネフが調印したが、直後のソ連のアフガニスタン侵攻を受けてアメリカ上院が批准せず、発効しなかった ウ ニクソンとブレジネフが調印し、弾道弾迎撃ミサイルの制限と戦略攻撃兵器の暫定的な凍結を定めた エ レーガンとゴルバチョフが調印し、特定の種類の核兵器を初めて全廃した undefined ブッシュ(父)とゴルバチョフが調印し、戦略核弾頭の数を削減することを定めた)
- 冷戦の起源に関する記述として妥当なものはどれですか。 (ア 1949 年に NATO とワルシャワ条約機構が同時に結成され、翌年のマーシャル・プランへのソ連の対抗措置としてコミンフォルムが結成されたことで、東西の対立が明確になった イ マーシャル・プランはソ連と東欧諸国も受け入れたため、経済面ではヨーロッパの東西分断は起きなかった ウ チャーチルの「鉄のカーテン」演説はソ連の東欧支配を容認するもので、米英とソ連の協調を確認した エ 1947 年にトルーマン・ドクトリンとマーシャル・プランが発表され、ソ連がコミンフォルムを結成して対抗したことで、東西の対立が明確になった undefined 冷戦は 1950 年の朝鮮戦争で米ソが直接戦火を交えたことから始まった)
- 朝鮮戦争(1950〜53 年)に関する記述として妥当なものはどれですか。 (ア 朝鮮戦争を機に日本は自衛隊を創設し、同年に日米安全保障条約を締結した イ ソ連が中国代表権問題で安保理に復帰して拒否権を行使したため国連軍は派遣できず、アメリカは NATO 諸国とともに単独で韓国を支援した ウ 1953 年に平和条約が結ばれて戦争は正式に終結し、南北朝鮮は国連に同時加盟した エ 中国は参戦せず、北朝鮮はソ連軍の直接介入によって国連軍と戦った undefined ソ連が中国代表権問題で安保理を欠席していたため、安保理は北朝鮮を侵略者と認定して国連軍の派遣を決めることができた)
- キューバ危機(1962 年)に関する記述として妥当なものはどれですか。 (ア ソ連のキューバへの核ミサイル配備をめぐってケネディ大統領が海上封鎖で対抗し、フルシチョフがミサイル撤去に応じて核戦争は回避され、翌年に米ソのホットラインと部分的核実験禁止条約が実現した イ ソ連のキューバへの核ミサイル配備をめぐってニクソン大統領が海上封鎖で対抗し、ブレジネフがミサイル撤去に応じて核戦争は回避されたが、米ソ関係はその後さらに悪化し、翌年に核拡散防止条約の交渉が打ち切られた ウ キューバ危機を受けて米ソは翌年に核拡散防止条約(NPT)を結び、核保有国を 5 か国に限定した エ キューバ危機では国連安保理が武力行使容認決議を採択し、多国籍軍がキューバを封鎖した undefined アメリカのキューバ侵攻に対してソ連が核攻撃を警告し、アメリカがキューバから撤退することで危機は回避された)
- ゴルバチョフと冷戦の終結に関する記述として妥当なものはどれですか。 (ア ゴルバチョフの改革によってソ連は市場経済への移行に成功し、CIS の初代大統領に就任した イ 1985 年に書記長に就任したゴルバチョフはペレストロイカ・グラスノスチと新思考外交を進め、東欧革命に介入せず、1989 年のマルタ会談でブッシュ(父)と冷戦の終結を宣言した ウ ゴルバチョフは 1987 年に INF 全廃条約に調印したが、アフガニスタンからの撤退は拒否し、ソ連軍はソ連解体まで駐留を続けた エ 1985 年に書記長に就任したゴルバチョフはペレストロイカ・グラスノスチを進めたが、軍事介入によって東欧の民主化を抑え込み、1991 年のソ連解体後にマルタ会談でエリツィンとブッシュ(父)が冷戦の終結を宣言した undefined マルタ会談はレーガンとゴルバチョフの間で行われ、ベルリンの壁の建設が合意された)
標準
- 1968 年の出来事として妥当なものはどれですか。 (ア 核拡散防止条約(NPT)が調印され、ソ連がプラハの春に軍事介入した イ キューバ危機が起こり、米ソが核戦争の一歩手前まで対立した ウ ニクソン米大統領が中国を訪問し、米ソが SALT I に合意した エ 全欧安全保障協力会議(CSCE)でヘルシンキ宣言が採択された undefined 西ドイツが NATO に加盟し、ワルシャワ条約機構が結成された)
- 冷戦期の出来事と関わった首脳について、1972 年に中国を訪問して米中接近を実現したアメリカ大統領と、会談した中国側の指導者の組み合わせとして正しいものはどれですか。 (ア ニクソン ── 鄧小平 イ ジョンソン ── 周恩来 ウ ニクソン ── 毛沢東 エ カーター ── 鄧小平 undefined ケネディ ── 毛沢東)
- 1950 年代の「雪どけ」に関する記述として妥当なものはどれですか。 (ア スターリンの死後、ソ連は平和共存路線に転じ、1955 年のジュネーブ四巨頭会談や 1959 年のフルシチョフ訪米が実現したが、同じ時期にハンガリー動乱への軍事介入も行われた イ 1956 年のフルシチョフによるスターリン批判は中国から強く支持され、中ソの結束が強まった ウ 雪どけの結果、1961 年にベルリンの壁が撤去され、東西ベルリンの自由な往来が認められた エ スターリンの死後、ソ連は平和共存路線に転じて東欧諸国の自由化を全面的に認め、1955 年のジュネーブ四巨頭会談を経て、1956 年のハンガリー動乱ではソ連軍が撤退して民主化が実現した undefined 雪どけは 1962 年のキューバ危機をきっかけに始まり、1963 年の部分的核実験禁止条約で頂点に達した)
- ベトナム戦争に関する記述として妥当なものはどれですか。 (ア アメリカは 1954 年のジュネーブ休戦協定に基づいて南ベトナムに派兵し、1964 年のトンキン湾事件を機に翌年から北爆を始めたが、戦争は安保理決議に基づく国連軍の活動として行われ、1973 年のパリ和平協定で終結した イ ベトナム戦争でのアメリカの勝利によって東南アジアの共産化は防がれ、アメリカの国際的な地位は高まった ウ ベトナム戦争中、フランスはアメリカを全面的に支援し、NATO の軍事機構に復帰した エ アメリカは 1964 年のトンキン湾事件を機に翌年から北爆と地上軍の本格投入を行ったが、戦況の泥沼化と反戦運動を受けて 1973 年のパリ和平協定で撤退し、1975 年にサイゴンが陥落した undefined 1973 年のパリ和平協定でベトナムは南北に統一され、同年サイゴンが陥落して戦争は終結した)
- 中ソ対立と米中接近に関する記述として妥当なものはどれですか。 (ア 中ソ対立は 1969 年の国境紛争から始まり、1971 年に中華人民共和国の国連代表権が承認されたが、アメリカはソ連と協調して中国を封じ込めたため、ニクソン訪中は実現せず、米中の国交正常化は冷戦終結後の 1992 年まで持ち越された イ ニクソン訪中は 1979 年の米中国交正常化の後に行われ、日本の日中国交正常化はさらにその後の 1980 年代に実現した ウ 米中接近はソ連との協調のもとで進められ、ソ連はニクソン訪中を歓迎して中ソ関係も改善した エ 1971 年の国連総会で中華人民共和国の代表権が承認されたが、中華民国(台湾)も加盟国として残り、現在も両方が国連に議席をもっている undefined 中ソ対立は 1956 年のスターリン批判と平和共存路線への中国の反発から始まり、1969 年には国境で武力衝突が起きた。ソ連と対立する中国にアメリカが接近し、1972 年のニクソン訪中を経て 1979 年に米中の国交が正常化した)
- デタント(緊張緩和)に関する記述として妥当なものはどれですか。 (ア デタントはソ連のハンガリー侵攻(1956 年)によって終わり、新冷戦に移行した イ ヘルシンキ宣言は米ソ 2 国間の核軍縮条約で、中距離核ミサイルの全廃を定めた ウ デタント期にソ連はブレジネフ・ドクトリンを放棄し、東欧諸国の自主的な改革を認めた エ デタントは 1962 年のキューバ危機から 1968 年のプラハの春までの短い期間を指し、SALT I とヘルシンキ宣言はいずれもデタント終了後の新冷戦期に合意された undefined 1970 年代のデタント期には、SALT I の合意、西ドイツのブラント首相による東方外交と東西ドイツの国連同時加盟、ヘルシンキ宣言の採択などが実現した)
- 新冷戦(1979 年〜1980 年代前半)に関する記述として妥当なものはどれですか。 (ア 新冷戦期にはヨーロッパで中距離核ミサイルの配備が全面的に停止され、米ソの核軍縮が大きく進んだ イ 1979 年のソ連のアフガニスタン侵攻に対し、国連安保理は武力行使容認決議を採択し、アメリカを中心とする多国籍軍がアフガニスタンに派遣されてソ連軍を撤退させ、レーガン政権はこれを受けて SALT II を批准した ウ レーガン政権は SALT II を批准して発効させ、ソ連との軍備管理を継続した エ 1979 年のソ連のアフガニスタン侵攻を機にデタントは終わり、アメリカはモスクワ五輪をボイコットし、レーガン政権はソ連を「悪の帝国」と呼んで SDI(戦略防衛構想)などの軍拡を進めた undefined アフガニスタン侵攻後、ソ連は 1980 年のうちに撤退を完了し、米ソ関係はすぐに改善した)
- 次の A〜E の出来事を古い順に並べたものとして正しいものはどれですか。 A ドイツ統一 B マルタ会談 C ソ連の解体 D ゴルバチョフの書記長就任 E INF 全廃条約の調印 (ア B → D → E → A → C イ D → E → A → B → C ウ D → E → B → A → C エ D → B → E → A → C undefined E → D → B → C → A)
発展
- 冷戦後の武力行使と国連の関わりについて、アフガニスタン攻撃(2001 年)の説明として妥当なものはどれですか。 (ア ソ連が親ソ政権を支えるために軍事侵攻し、アメリカはこれに抗議してモスクワ五輪をボイコットし、デタントが終わった イ 同時多発テロの実行組織アルカイダをかくまうタリバン政権を倒すためにアメリカが攻撃し、NATO は北大西洋条約 5 条を史上初めて発動した ウ 同時多発テロの実行組織アルカイダをかくまうタリバン政権を倒すためにアメリカが攻撃したが、NATO は加盟国の意見が分かれて 5 条を発動できなかった エ 大量破壊兵器の保有を理由にアメリカ・イギリスが安保理決議なしに攻撃し、フセイン政権を倒した undefined タリバン政権による市民への攻撃に対し、安保理決議で飛行禁止区域が設けられ、NATO が空爆を行った)
- ユーゴスラビア紛争に関する記述として妥当なものはどれですか。 (ア ユーゴスラビア紛争は冷戦のさなかの 1970 年代に始まり、米ソの代理戦争として戦われた イ ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦では国連 PKO が住民を守り 1995 年のデイトン合意で終結し、コソボ紛争では安保理が武力行使容認決議を採択し、これに基づいて NATO が空爆を行ったため、介入の正統性は問題にならなかった ウ ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦は国連 PKO の展開によって短期間で収束し、NATO は一切関与しなかった エ コソボは 1995 年のデイトン合意で独立が認められ、直ちに国連に加盟した undefined ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦では国連 PKO が住民を守れず、NATO の空爆を経て 1995 年のデイトン合意で終結した。コソボ紛争では NATO が安保理決議なしで空爆を行い、人道的介入の是非が論争となった)
- 2001 年の同時多発テロ以後のアメリカの対外政策に関する記述として妥当なものはどれですか。 (ア アメリカはタリバン政権を倒すためアフガニスタンを攻撃し、2003 年には安保理の武力行使容認決議に基づいてイラク戦争を始め、フランス・ドイツ・ロシアも多国籍軍に参加してフセイン政権を倒した イ アメリカはタリバン政権を倒すためアフガニスタンを攻撃し、2003 年には大量破壊兵器の保有を理由に安保理の武力行使容認決議なしでイラク戦争を始めたが、フランス・ドイツ・ロシアは開戦に反対した ウ 同時多発テロ後、アメリカは国連中心主義に転じ、単独行動を控えて安保理の決定に従う方針をとった エ アフガニスタン攻撃に際して NATO は加盟国の意見が分かれて北大西洋条約 5 条を発動できず、アメリカは単独で攻撃した undefined イラク戦争では大量破壊兵器が発見され、開戦の正当性が国際的に確認された)
- 冷戦の起源をめぐる歴史解釈に関する記述として妥当なものはどれですか。 (ア ポスト修正主義は冷戦の責任がもっぱらアメリカにあるとし、ソ連の防衛的な意図を強調した イ ソ連の拡張主義に冷戦の責任を求める正統派、アメリカの経済的な膨張に原因を求める修正主義、双方の誤認と安全保障のジレンマから説明するポスト修正主義の 3 つの立場がある ウ アメリカの経済的な膨張に冷戦の原因を求める正統派、ソ連の拡張主義に責任を求める修正主義、双方の指導者の個人的な対立から説明するポスト修正主義の 3 つの立場がある エ 修正主義はソ連の資料公開によって 1990 年代に初めて登場し、それ以前は正統派しか存在しなかった undefined 冷戦の起源をめぐる解釈は一致しており、米ソ双方の指導者の個人的な対立が唯一の原因とされる)
- 冷戦期の第三世界に関する記述として妥当なものはどれですか。 (ア 第三世界の国々はソ連の支援のもとでワルシャワ条約機構に加盟し、東側陣営の一員として行動した イ 非同盟諸国首脳会議は 1975 年のヘルシンキ宣言を受けてヨーロッパで初めて開かれた ウ 1960 年の「アフリカの年」にはアフリカ大陸のすべての植民地が一斉に独立し、アフリカ統一機構が結成された エ 1955 年のバンドン会議で平和十原則が採択され、1961 年にはベオグラードで非同盟諸国首脳会議が開かれるなど、アジア・アフリカの新独立国は米ソどちらの陣営にも属さない立場をとった undefined 1955 年のバンドン会議はアメリカの主導で開かれて平和十原則が採択され、1961 年にはワシントンで非同盟諸国首脳会議が開かれるなど、アジア・アフリカの新独立国は西側陣営に参加する立場をとった)
国際政治史②(冷戦の始まりから終結・ポスト冷戦) ── 解答
基礎
- エ アメリカ国務長官が発表したヨーロッパ復興計画で、西欧への大規模な経済援助を行い、ソ連と東欧諸国は受け入れを拒否した アメリカ国務長官が発表したヨーロッパ復興計画で、西欧への大規模な経済援助を行い、ソ連と東欧諸国は受け入れを拒否した。順番は 47 トルーマン・ドクトリン → 47 マーシャル・プラン → 47 コミンフォルム → 48 ベルリン封鎖 → 49 NATO → 55 ワルシャワ条約機構。
- イ カーターとブレジネフが調印したが、直後のソ連のアフガニスタン侵攻を受けてアメリカ上院が批准せず、発効しなかった カーターとブレジネフが調印したが、直後のソ連のアフガニスタン侵攻を受けてアメリカ上院が批准せず、発効しなかった。NPT(68)→ SALT I(72)→ ヘルシンキ宣言(75)→ SALT II(79・未発効)→ INF(87)→ START I(91)の順。
- エ 1947 年にトルーマン・ドクトリンとマーシャル・プランが発表され、ソ連がコミンフォルムを結成して対抗したことで、東西の対立が明確になった 47 トルーマン・ドクトリン → 47 マーシャル・プラン → 47 コミンフォルム。ワルシャワ条約機構は 1955 年。マーシャル・プランはソ連が拒否。冷戦は米ソが直接戦わない対立で、朝鮮戦争は米ソの直接戦争ではない。鉄のカーテン演説はソ連批判。
- undefined ソ連が中国代表権問題で安保理を欠席していたため、安保理は北朝鮮を侵略者と認定して国連軍の派遣を決めることができた ソ連の安保理欠席中に国連軍派遣を決定。中国は人民義勇軍で参戦。1953 年は休戦協定(平和条約は未締結)。南北の国連同時加盟は 1991 年。日本は 1950 年に警察予備隊(自衛隊は 1954 年)、日米安保条約は 1951 年。
- ア ソ連のキューバへの核ミサイル配備をめぐってケネディ大統領が海上封鎖で対抗し、フルシチョフがミサイル撤去に応じて核戦争は回避され、翌年に米ソのホットラインと部分的核実験禁止条約が実現した ケネディとフルシチョフ。海上封鎖 → ソ連のミサイル撤去。翌 1963 年にホットライン・PTBT。NPT は 1968 年。危機を経て米ソは緊張緩和に向かった。
- イ 1985 年に書記長に就任したゴルバチョフはペレストロイカ・グラスノスチと新思考外交を進め、東欧革命に介入せず、1989 年のマルタ会談でブッシュ(父)と冷戦の終結を宣言した ゴルバチョフ(1985 年〜):ペレストロイカ・グラスノスチ・新思考外交。INF(1987 年)、アフガン撤退完了(1989 年)、東欧革命に不介入、マルタ会談(1989 年、ブッシュ父)。ソ連解体は 1991 年でゴルバチョフは辞任。
標準
- ア 核拡散防止条約(NPT)が調印され、ソ連がプラハの春に軍事介入した 1968 年は「核拡散防止条約(NPT)が調印され、ソ連がプラハの春に軍事介入した」。米ソ関係は「対立(47〜)→ 雪どけ(55〜)→ 危機(62)→ デタント(68〜75)→ 新冷戦(79〜)→ 終結(85〜91)」の波で覚える。
- ウ ニクソン ── 毛沢東 ニクソン ── 毛沢東。ケネディ=フルシチョフ(1960 年代初め)、ニクソン=ブレジネフ(デタント)、カーター=ブレジネフ(SALT II)、レーガン=ゴルバチョフ(INF)、ブッシュ(父)=ゴルバチョフ(マルタ)。
- ア スターリンの死後、ソ連は平和共存路線に転じ、1955 年のジュネーブ四巨頭会談や 1959 年のフルシチョフ訪米が実現したが、同じ時期にハンガリー動乱への軍事介入も行われた スターリン死去(1953 年)→ 平和共存 → ジュネーブ四巨頭会談(1955 年)・スターリン批判(1956 年)・訪米(1959 年)。ただしハンガリー動乱(1956 年)は鎮圧。スターリン批判は中ソ対立の始まり。ベルリンの壁は 1961 年に建設。
- エ アメリカは 1964 年のトンキン湾事件を機に翌年から北爆と地上軍の本格投入を行ったが、戦況の泥沼化と反戦運動を受けて 1973 年のパリ和平協定で撤退し、1975 年にサイゴンが陥落した トンキン湾事件(1964 年)→ 北爆(1965 年)→ パリ和平協定(1973 年、米軍撤退)→ サイゴン陥落(1975 年)→ 統一(1976 年)。国連軍ではない。アメリカの威信は低下し多極化が進んだ。フランスは 1966 年に NATO 軍事機構から脱退。
- undefined 中ソ対立は 1956 年のスターリン批判と平和共存路線への中国の反発から始まり、1969 年には国境で武力衝突が起きた。ソ連と対立する中国にアメリカが接近し、1972 年のニクソン訪中を経て 1979 年に米中の国交が正常化した スターリン批判(1956 年)→ 公然化(1960 年代)→ 珍宝島事件(1969 年)。キッシンジャー秘密訪中(1971 年)・代表権承認(1971 年、台湾は国連を離れた)→ ニクソン訪中(1972 年)→ 日中共同声明(1972 年)→ 米中国交正常化(1979 年)。
- undefined 1970 年代のデタント期には、SALT I の合意、西ドイツのブラント首相による東方外交と東西ドイツの国連同時加盟、ヘルシンキ宣言の採択などが実現した デタントは 1960 年代末〜70 年代。SALT I(1972 年)・東方外交(1970〜72 年)・国連同時加盟(1973 年)・ヘルシンキ宣言(1975 年、35 か国)。プラハの春鎮圧(1968 年)でブレジネフ・ドクトリンが唱えられた。デタントの終わりはアフガニスタン侵攻(1979 年)。
- エ 1979 年のソ連のアフガニスタン侵攻を機にデタントは終わり、アメリカはモスクワ五輪をボイコットし、レーガン政権はソ連を「悪の帝国」と呼んで SDI(戦略防衛構想)などの軍拡を進めた アフガニスタン侵攻(1979 年 12 月)→ モスクワ五輪ボイコット(1980 年)→ レーガン「悪の帝国」・SDI(1983 年)。ユーロミサイル問題(SS-20 とパーシング II)で配備競争。SALT II は未発効。ソ連の撤退完了は 1989 年。
- ウ D → E → B → A → C D ゴルバチョフ就任(1985 年)→ E INF 全廃条約(1987 年)→ B マルタ会談(1989 年 12 月)→ A ドイツ統一(1990 年 10 月)→ C ソ連解体(1991 年 12 月)。「89 マルタ → 90 ドイツ統一 → 91 ソ連解体」の順序が問われる。
発展
- イ 同時多発テロの実行組織アルカイダをかくまうタリバン政権を倒すためにアメリカが攻撃し、NATO は北大西洋条約 5 条を史上初めて発動した 同時多発テロの実行組織アルカイダをかくまうタリバン政権を倒すためにアメリカが攻撃し、NATO は北大西洋条約 5 条を史上初めて発動した。冷戦後の武力行使は「安保理決議があったか」で分ける:あり(湾岸戦争・リビア)/なし(コソボ・イラク戦争)。ウクライナは安保理が動けず総会が対応。NATO 5 条の初発動は 2001 年。
- undefined ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦では国連 PKO が住民を守れず、NATO の空爆を経て 1995 年のデイトン合意で終結した。コソボ紛争では NATO が安保理決議なしで空爆を行い、人道的介入の是非が論争となった ボスニア(1992〜95 年):PKO の限界 → NATO 空爆 → デイトン合意。コソボ(1999 年):安保理決議なしで NATO 空爆。ユーゴ紛争は冷戦終結後(1991 年〜)。コソボの独立宣言は 2008 年(国連未加盟)。
- イ アメリカはタリバン政権を倒すためアフガニスタンを攻撃し、2003 年には大量破壊兵器の保有を理由に安保理の武力行使容認決議なしでイラク戦争を始めたが、フランス・ドイツ・ロシアは開戦に反対した 2001 年アフガニスタン攻撃(NATO 5 条を初発動)。2003 年イラク戦争は安保理決議なし(独仏露が反対)、大量破壊兵器は見つからず。単独行動主義(ユニラテラリズム)が批判された。
- イ ソ連の拡張主義に冷戦の責任を求める正統派、アメリカの経済的な膨張に原因を求める修正主義、双方の誤認と安全保障のジレンマから説明するポスト修正主義の 3 つの立場がある 正統派(ソ連に責任)・修正主義(アメリカの経済的膨張。1960 年代のベトナム戦争期に台頭)・ポスト修正主義(ギャディスら。相互の誤認と安全保障のジレンマ)。
- エ 1955 年のバンドン会議で平和十原則が採択され、1961 年にはベオグラードで非同盟諸国首脳会議が開かれるなど、アジア・アフリカの新独立国は米ソどちらの陣営にも属さない立場をとった バンドン会議(1955 年、アジア・アフリカ 29 か国)→ 非同盟諸国首脳会議(1961 年ベオグラード、ネルー・ナセル・ティトーら)。アフリカの年(1960 年)は 17 か国の独立。OAU は 1963 年。
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