地方上級 / 国際関係 / zi-02
国際政治史②(冷戦の始まりから終結・ポスト冷戦)
この単元でできるようになること
- 冷戦の起源をトルーマン・ドクトリン → マーシャル・プラン → コミンフォルム → ベルリン封鎖 → NATO → ワルシャワ条約機構の順に、年と内容つきで説明できる
- 朝鮮戦争・雪どけ・キューバ危機・ベトナム戦争の年と、それぞれが米ソ関係に与えた影響を言える
- デタント(NPT・SALT・ヘルシンキ宣言)と中ソ対立・米中接近、新冷戦(アフガニスタン侵攻)を区別できる
- ゴルバチョフの改革からマルタ会談(1989 年)・ドイツ統一(1990 年)・ソ連解体(1991 年)までの流れを順番に並べられる
- ポスト冷戦の湾岸戦争・ユーゴ紛争・9.11 とテロとの戦い・イラク戦争・アラブの春・ウクライナ侵攻を、国連や NATO の関わり方とセットで説明できる
試験での位置づけ
冷戦史は国際関係の中でもっとも「出来事の順番」が問われる範囲です。地方上級・国家一般職では「次の出来事を古い順に並べたもの」「デタント期の出来事として妥当なもの」のような形で出ます。教養の世界史(zj-07)と重なりますが、国際関係では「その出来事で米ソ関係がどう変わったか」「国連や同盟がどう動いたか」まで問われます。理論(二極安定・安全保障のジレンマなど)は zp-07、国連の仕組みは zi-03 と zk-03 に任せます。
出題の型は「年代を 1 つ隣にずらす(NATO 1949 年とワルシャワ条約機構 1955 年を同時期にする)」「人名を入れかえる(ケネディとニクソン、ブッシュとレーガン)」「国連の関わりを逆にする(湾岸戦争は安保理決議あり・イラク戦争はなし)」が中心です。
1. 冷戦の起源(1945〜55 年)
まずここだけ
第二次世界大戦の連合国だったアメリカとソ連は、戦後の東欧の扱いをめぐって対立し、直接には戦わない対立=冷戦に入ります。1946 年 3 月、イギリスの前首相チャーチルが「鉄のカーテン」演説でソ連の東欧支配を批判し、アメリカの外交官ケナンがソ連の拡張を封じ込める封じ込め政策を提唱しました。始まりの出来事は「西側の動き → 東側の対抗」の順番ごと覚えます。
| 年 | 西側(アメリカ) | 東側(ソ連) |
|---|---|---|
| 1947 年 3 月 | トルーマン・ドクトリン:ギリシャ・トルコへの援助。共産主義の拡大を封じ込めると宣言 | |
| 1947 年 6 月 | マーシャル・プラン(ヨーロッパ復興計画):西欧への大規模な経済援助 | 1947 年 9 月 コミンフォルム(共産党情報局):各国共産党の連絡組織。1948 年にユーゴスラビアを除名 |
| 1948 年 6 月〜49 年 5 月 | ベルリン封鎖:西側の通貨改革に対抗してソ連が西ベルリンへの陸路を遮断。西側は大空輸で対抗 | 1949 年 1 月 コメコン(経済相互援助会議) |
| 1949 年 4 月 | NATO(北大西洋条約機構):米・カナダ・西欧 12 か国の軍事同盟 | 1949 年 8 月 ソ連が原爆実験に成功。10 月 中華人民共和国成立 |
| 1949 年 | 5 月 ドイツ連邦共和国(西ドイツ) | 10 月 ドイツ民主共和国(東ドイツ) |
| 1955 年 | 5 月 西ドイツが NATO に加盟 | 5 月 ワルシャワ条約機構:東欧 8 か国の軍事同盟 |
ここまでできれば十分
マーシャル・プランはソ連・東欧にも呼びかけられましたが、ソ連が拒否して東欧諸国にも受け入れさせなかったため、東西分断が経済面でも固定されました。受け入れ側の調整機関として 1948 年にOEEC(欧州経済協力機構)が作られ、1961 年のOECDの前身になります(zi-03)。
NATOは北大西洋条約 5 条で「加盟国への攻撃を全加盟国への攻撃とみなす」集団防衛(集団的自衛権)の同盟で、国連の集団安全保障(敵を想定しない)とは仕組みが違います(zp-07)。ワルシャワ条約機構は NATO より 6 年遅れ、西ドイツの再軍備と NATO 加盟に対抗して作られた点が問われます。
アジアでは 1949 年の中華人民共和国成立、1950 年の中ソ友好同盟相互援助条約で東側が広がり、アメリカは 1951 年の日米安全保障条約、1954 年のSEATO(東南アジア条約機構)などで対抗しました。
もう一歩(発展)
冷戦の起源をめぐる解釈は 3 つ:ソ連の拡張主義に責任があるとする正統派、アメリカの経済的な膨張(自由貿易圏の拡大)に原因を求める修正主義、双方の誤認と安全保障のジレンマから説明するポスト修正主義(ギャディス)です。
2. 朝鮮戦争・雪どけ・キューバ危機(1950〜63 年)
まずここだけ
朝鮮戦争(1950 年 6 月〜53 年 7 月):北朝鮮の南進で開戦。ソ連が中国代表権問題で安保理を欠席していたため、安保理は北朝鮮を侵略者と認定し、国連軍(米軍中心)の派遣を決められました。中国は人民義勇軍を送って参戦し、1953 年に板門店で休戦協定(平和条約は結ばれていない)。この戦争中、ソ連が安保理に戻って拒否権を使うようになったため、総会は「平和のための結集」決議(1950 年 11 月)を採択しました(zi-03)。日本には警察予備隊の創設(1950 年)と特需景気をもたらしました。
雪どけ:1953 年のスターリン死去後、ソ連は西側との平和共存路線に転じます。1955 年のジュネーブ四巨頭会談(米・英・仏・ソ)、1956 年のフルシチョフのスターリン批判、1959 年のフルシチョフ訪米(キャンプ・デービッド会談)が代表的な出来事です。ただし同じ 1956 年にソ連はハンガリー動乱を軍事介入で鎮圧し、1960 年には U2 型偵察機の撃墜事件でパリ首脳会談が流れ、1961 年にはベルリンの壁が築かれるなど、雪どけは一直線ではありませんでした。
ここまでできれば十分
キューバ危機(1962 年 10 月):ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設していることをアメリカが発見し、ケネディ大統領が海上封鎖(臨検)で対抗。フルシチョフがミサイル撤去に応じ、アメリカはキューバに侵攻しないと約束して 13 日間の危機は終わりました。核戦争の一歩手前まで行った反省から、翌 1963 年に米ソ首脳間のホットラインが設けられ、部分的核実験禁止条約(PTBT)が結ばれます。「危機を経て米ソは緊張緩和に向かった」という流れがポイントです。
同じ時期、アジア・アフリカの新独立国は米ソどちらの陣営にも属さない非同盟の立場をとりました。1955 年のバンドン会議(アジア・アフリカ会議。平和十原則)、1961 年の非同盟諸国首脳会議(ベオグラード。ネルー・ナセル・ティトーら)が代表で、「第三世界」と呼ばれます。1960 年はアフリカで 17 か国が独立した「アフリカの年」です。
3. ベトナム戦争・多極化・デタント(1960〜70 年代)
まずここだけ
ベトナム戦争:1954 年のジュネーブ休戦協定で北緯 17 度線を境に南北に分かれたベトナムで、南の解放戦線(北ベトナムが支援)と南ベトナム政府の内戦が続き、アメリカは 1964 年のトンキン湾事件を機に 1965 年から北爆と地上軍の本格投入を始めました。国内外の反戦運動と戦況の泥沼化で、ニクソン大統領は 1973 年のパリ和平協定で米軍を撤退させ、1975 年にサイゴンが陥落、1976 年にベトナム社会主義共和国として統一されました。
ベトナム戦争でアメリカの力が相対的に低下し、西側ではフランス(ド・ゴール。1966 年に NATO の軍事機構から脱退)、東側では中国がソ連から離れるなど、米ソ二極から多極化が進みました。
ここまでできれば十分
中ソ対立:1956 年のスターリン批判と平和共存路線を中国が「修正主義」と批判したことから始まり、1960 年代に公然化、1969 年には国境で武力衝突(珍宝島/ダマンスキー島)が起きました。ソ連と対立する中国にアメリカが接近したのが米中接近です。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1971 年 7 月 | キッシンジャー大統領補佐官が秘密裏に訪中 |
| 1971 年 10 月 | 国連総会で中華人民共和国の代表権が承認され、中華民国(台湾)が国連を離れる |
| 1972 年 2 月 | ニクソン訪中。上海コミュニケ |
| 1972 年 9 月 | 日中共同声明(日本は台湾と断交) |
| 1979 年 1 月 | 米中国交正常化(カーター政権) |
デタント(緊張緩和):1960 年代末〜70 年代の米ソ関係の安定期です。
| 年 | 出来事 | 内容 |
|---|---|---|
| 1968 年 | NPT(核拡散防止条約)署名。1970 年発効 | 核保有を米・ソ・英・仏・中の 5 か国に限る |
| 1972 年 | SALT I(第 1 次戦略兵器制限交渉)合意 | ニクソン訪ソ。ABM(弾道弾迎撃ミサイル)制限条約と攻撃兵器の暫定協定 |
| 1970〜72 年 | 西ドイツ・ブラント首相の東方外交 | ソ連・ポーランドとの条約、東西ドイツ基本条約(1972 年)。1973 年に東西ドイツが国連に同時加盟 |
| 1975 年 | ヘルシンキ宣言(全欧安全保障協力会議=CSCE の最終文書) | 米・カナダと欧州 35 か国。国境の不可侵・内政不干渉と人権尊重を確認。1995 年に常設のOSCEへ |
| 1979 年 | SALT II 調印 | 直後のアフガニスタン侵攻で米上院が批准せず、発効しなかった |
デタントの背景には、ベトナム戦争の負担、核戦力の均衡(相互確証破壊)、中ソ対立の利用があります。一方で 1968 年にはソ連がチェコスロバキアの民主化(プラハの春)をワルシャワ条約機構軍で鎮圧し、社会主義圏の利益のためには主権が制限されるというブレジネフ・ドクトリン(制限主権論)を唱えました。
4. 新冷戦から冷戦終結へ(1979〜91 年)
まずここだけ
1979 年 12 月のソ連のアフガニスタン侵攻でデタントは終わり、新冷戦と呼ばれる再対立の時期に入ります。アメリカは 1980 年のモスクワ五輪をボイコットし、レーガン大統領(1981 年〜)はソ連を「悪の帝国」と呼んで軍拡とSDI(戦略防衛構想、1983 年)を進めました。ヨーロッパではソ連の中距離核ミサイル SS-20 と NATO のパーシング II 配備をめぐる対立(ユーロミサイル問題)が続きました。
ここまでできれば十分
1985 年にゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任し、ペレストロイカ(建て直し)・グラスノスチ(情報公開)と、対外的には協調を重んじる「新思考外交」を打ち出したことで冷戦は急速に終わりに向かいます。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1987 年 12 月 | INF(中距離核戦力)全廃条約:レーガンとゴルバチョフ。特定の種類の核兵器を初めて全廃 |
| 1989 年 2 月 | ソ連軍がアフガニスタンから撤退完了 |
| 1989 年 | 東欧諸国の民主化(東欧革命):ポーランドの自由選挙(6 月)、ハンガリーの国境開放、11 月 9 日ベルリンの壁崩壊、ルーマニアのチャウシェスク政権崩壊(12 月)。ソ連は介入せず(ブレジネフ・ドクトリンの放棄) |
| 1989 年 12 月 | マルタ会談:ブッシュ(父)とゴルバチョフが冷戦の終結を宣言 |
| 1990 年 10 月 3 日 | ドイツ統一:東西ドイツと米英仏ソによる「2 プラス 4」条約を経て、東ドイツが西ドイツに編入 |
| 1990 年 11 月 | パリ憲章(CSCE):ヨーロッパの分断の終わりを宣言 |
| 1991 年 7 月 | ワルシャワ条約機構が解散。START I(戦略兵器削減条約)調印 |
| 1991 年 8 月 | ソ連で保守派のクーデター失敗。バルト三国の独立 |
| 1991 年 12 月 | ロシア・ウクライナ・ベラルーシが独立国家共同体(CIS)を創設。12 月 25 日ゴルバチョフが辞任し、ソ連解体 |
冷戦終結は「マルタ会談 1989 年 → ドイツ統一 1990 年 → ソ連解体 1991 年」の順です。「ソ連解体によって冷戦が終わった」と書く肢は順序が逆で、冷戦終結の宣言はソ連が存在するうちに行われました。ゴルバチョフは 1990 年にノーベル平和賞を受けています。
もう一歩(発展)
冷戦が終わった理由については、アメリカの軍拡がソ連経済を疲弊させたという見方(レーガン勝利説)、ソ連内部の経済の行き詰まりと指導者の考え方の変化を重んじる見方(ゴルバチョフの新思考)、東欧市民の運動を重んじる見方があります。国際政治理論では、リアリズムが冷戦の平和的な終結を予測できなかったことが、規範や観念を重んじるコンストラクティヴィズム(zp-07)の台頭につながりました。
5. ポスト冷戦(1990 年代)── 湾岸戦争と地域紛争
まずここだけ
湾岸戦争(1991 年):1990 年 8 月にイラク(フセイン政権)がクウェートに侵攻。安保理は経済制裁を決め、11 月の決議 678で武力行使を容認しました。1991 年 1 月、アメリカを中心とする多国籍軍がイラクを攻撃し、2 月末にクウェートを解放しました。冷戦後に常任理事国が一致して集団的措置を取れた例で「国連の集団安全保障が機能した」と評価されますが、多国籍軍は国連憲章が想定する国連軍ではありません(憲章上の国連軍は結成されたことがない)。日本は 130 億ドルの資金協力をしましたが「人的貢献がない」と批判され、戦後にペルシャ湾へ掃海艇を派遣、1992 年のPKO 協力法につながりました(zi-05)。
ここまでできれば十分
冷戦後の地域紛争は「国連・ がどう関わったか」で問われます。
| 紛争 | 年 | 経過と国連・NATO の関わり | 論点 |
|---|---|---|---|
| ソマリア | 1992〜95 年 | PKO が武力行使を認められたが失敗し撤退 | 強制型 PKO の限界 |
| ルワンダ | 1994 年 | 大量虐殺を国連が止められなかった | 国際社会の不作為 |
| ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦 | 1992〜95 年 | 多民族国家ユーゴスラビアの解体(1991 年にスロベニア・クロアチアが独立宣言)の中で「民族浄化」と呼ばれる虐殺。国連 PKO(UNPROFOR)は住民を守れず → NATO 空爆 → 1995 年デイトン合意で終結 | PKO の限界・人道的介入 |
| コソボ紛争 | 1998〜99 年 | NATO が安保理決議なしでユーゴを空爆(1999 年 3〜6 月)。コソボは 2008 年に独立宣言 | 人道的介入と国連の正統性 |
これらの経験から、2005 年の国連世界サミットで「保護する責任(R2P)」── 国家が自国民を保護できないときは国際社会が責任を負う ── という考え方が確認されました。
1990 年代にはNATO の東方拡大も始まり、1999 年にポーランド・チェコ・ハンガリーが加盟、2004 年にはバルト三国を含む 7 か国が加盟しました。ロシアはこれを安全保障上の脅威と受け止め、のちのウクライナ侵攻の正当化にも使っています。
6. 9.11 以後(2001 年〜)── テロとの戦い・アラブの春・ウクライナ
まずここだけ
2001 年 9 月 11 日、アメリカで同時多発テロが起き、ブッシュ(子)政権は「テロとの戦い」を掲げました。同年 10 月、テロ組織アルカイダをかくまうタリバン政権を倒すためアフガニスタンを攻撃(NATO は史上初めて北大西洋条約 5 条を発動)。2003 年 3 月には大量破壊兵器の保有を理由に、安保理の武力行使容認決議なしで英国などとともにイラク戦争を始め、フセイン政権を倒しました(日本はイラク復興支援特別措置法で自衛隊を派遣)。しかし大量破壊兵器は見つからず、フランス・ドイツ・ロシアは開戦に反対し、国連中心の秩序と単独行動主義(ユニラテラリズム)の対立が焦点になりました。
ここまでできれば十分
| 年 | 出来事 | ポイント |
|---|---|---|
| 2008 年 | 世界金融危機 | G20 首脳会議が始まる(zi-03) |
| 2010〜11 年 | アラブの春 | チュニジアから広がった民主化運動。エジプトのムバラク政権・リビアのカダフィ政権が倒れる。リビアには安保理決議 1973 で飛行禁止区域が設けられ NATO が空爆 |
| 2011 年〜 | シリア内戦 | 安保理はロシア・中国の拒否権で動けず。2014 年に「イスラム国(IS)」が台頭 |
| 2014 年 | ロシアのクリミア併合 | ウクライナの政変後。G8 からロシアが除外され G7 に戻る |
| 2021 年 8 月 | 米軍がアフガニスタンから撤退 | タリバンが政権を奪回 |
| 2022 年 2 月 24 日 | ロシアのウクライナ全面侵攻 | 安保理はロシアの拒否権で機能せず、緊急特別総会がロシア非難決議(141 か国賛成)。フィンランド(2023 年)・スウェーデン(2024 年)が NATO に加盟 |
ウクライナ侵攻では、湾岸戦争と違って安保理が侵略国の拒否権で動けず、総会が「平和のための結集」の手続きで緊急特別会合を開いて対応した点が、国連の仕組みとつなげて問われます(zi-03)。2023 年 10 月にはハマスの攻撃を機にガザ紛争が始まり、中東情勢も緊張が続いています。2023 年以降の動きは年ごとの変化が大きいので、最新の外交青書(外務省)で確認してください。
7. よくある間違い
| 間違い | 正しくは |
|---|---|
| ワルシャワ条約機構は NATO と同じ 1949 年 | 1955 年。西ドイツの NATO 加盟に対抗 |
| マーシャル・プランはソ連・東欧も受け入れた | ソ連は拒否し、東欧にも受け入れさせなかった |
| 朝鮮戦争で安保理はソ連の拒否権で動けなかった | ソ連が欠席していたため国連軍派遣を決められた |
| キューバ危機はニクソンとブレジネフ | ケネディとフルシチョフ(1962 年) |
| 雪どけの時期、ソ連は東欧の民主化を容認 | 1956 年ハンガリー動乱、1968 年プラハの春は軍事介入で鎮圧 |
| 中国の国連代表権は米中接近後の 1980 年代 | 1971 年(ニクソン訪中の前年) |
| SALT II は批准され発効した | 調印(1979 年)後、アフガニスタン侵攻で発効せず |
| ヘルシンキ宣言は米ソ 2 国間の核軍縮合意 | 35 か国による安全保障・人権の宣言 |
| ソ連解体を受けてマルタ会談で冷戦終結を宣言 | 89 マルタ → 90 ドイツ統一 → 91 ソ連解体の順 |
| ドイツ統一は壁崩壊と同じ 1989 年 | 壁崩壊 1989 年 11 月、統一は1990 年 10 月 |
| 湾岸戦争では憲章に基づく国連軍が派遣された | 安保理決議に基づく多国籍軍 |
| イラク戦争は安保理の武力行使容認決議に基づく | 決議があったのは湾岸戦争。イラク戦争・コソボ空爆は決議なし |
8. 覚え方の型
- 冷戦の始まりは「47 トルーマン・マーシャル → 48 ベルリン封鎖 → 49 NATO・中国成立 → 55 ワルシャワ」と年で並べる
- 米ソ関係は「対立 → 雪どけ → 危機 → デタント → 新冷戦 → 終結」の波で捉え、代表的な出来事を 1 つずつ(キューバ危機・SALT I・アフガニスタン侵攻・マルタ会談)当てはめる
- 指導者の組み合わせで年代を判別:ケネディ=フルシチョフ(1960 年代初め)/ニクソン=ブレジネフ(デタント)/レーガン=ゴルバチョフ(INF)/ブッシュ(父)=ゴルバチョフ(マルタ)
- 冷戦後の武力行使は「安保理決議があったか」で分ける:あり(湾岸戦争・リビア)/なし(コソボ・イラク戦争)。ウクライナ侵攻は安保理が動けず総会が動いた
9. 小テストへ
→ 小テスト(zi-02)
関連する単元
- 前提:zi-01 国際政治史①(ウェストファリア体制〜第一次世界大戦〜戦間期)、zj-07 世界史 現代(二つの大戦・冷戦)
- 次に進む:zi-03 国際機構(国連の仕組み・EU・地域機構・国際経済機構)、zi-04 安全保障と軍縮・国際法、zi-05 日本の外交と国際経済
- 同じ考え方を使う:zp-07 国際政治の理論(二極安定論・安全保障のジレンマ・コンストラクティヴィズム)、zk-03 国際政治(国連・安全保障・国際法)
参考資料
- 国際連合憲章、北大西洋条約(1949 年)、核拡散防止条約(1968 年)、ヘルシンキ宣言(1975 年)
- 外務省「外交青書」(https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/ )── 2022 年以降のウクライナ情勢・中東情勢の年ごとの記述
- 国連広報センター「国連の歴史」「平和維持活動」(https://www.unic.or.jp/ )
- J. L. ギャディス『冷戦』、佐々木卓也編『戦後アメリカ外交史』、下斗米伸夫『ソビエト連邦史』、細谷雄一『国際秩序』(標準的な文献)
- 人事院「国家公務員採用一般職試験(大卒程度試験)受験案内」── 専門試験の出題分野(国際関係)
受験のしらべ / https://juken-shirabe.com/koumuin/seiji/zi-02/ / 更新 2026-09-20