地方上級 / 国際関係 / zi-01
国際政治史①(ウェストファリア体制〜第一次世界大戦〜戦間期)
この単元でできるようになること
- ウェストファリア条約(1648 年)で主権国家体系が成立した意味と、ウィーン体制(1815 年)の勢力均衡・正統主義を説明できる
- ビスマルク外交(三帝同盟・独墺同盟・三国同盟・再保障条約)が、ビスマルク辞任後にどう崩れて三国協商・第一次世界大戦につながったかを順番に言える
- ヴェルサイユ体制と国際連盟(ウィルソンの 14 か条・集団安全保障・米不参加・全会一致)の仕組みと弱点を、国際連合との違いを意識して説明できる
- ワシントン体制(四か国・九か国・海軍軍縮条約)と不戦条約(1928 年)、ロカルノ条約を年と内容で区別できる
- 世界恐慌 → ブロック経済 → 満州事変・連盟脱退 → 第二次世界大戦の流れと、大西洋憲章・ヤルタ・ポツダムの内容を答えられる
試験での位置づけ
国際関係の歴史は、地方上級・国家一般職の専門試験(国際関係)で「出来事の順番」「条約の内容と参加国」「国際連盟と国際連合の違い」の形で問われます。教養の世界史(zj-07)と重なりますが、専門では「その条約が国際秩序をどう変えたか」まで問われるのが違いです。理論(勢力均衡・集団安全保障の考え方そのもの)は zp-07、冷戦以降は zi-02、国連の仕組みは zi-03 で扱います。
出題の型は「年を 1 つずらす」「参加国を入れかえる(三国同盟と三国協商、ヤルタとポツダムの参加者)」「連盟の特徴を国連の説明に混ぜる」の 3 つが中心です。
1. 主権国家体系の成立 ── ウェストファリア体制
まずここだけ
ドイツを舞台にした宗教戦争三十年戦争(1618〜48 年)を終わらせたのがウェストファリア条約(1648 年)です。神聖ローマ帝国内の諸侯にほぼ完全な主権が認められ(皇帝の権威は形だけに)、スイスとオランダの独立が正式に承認されました。ローマ教皇や皇帝といった「上位の権威」に代わって対等な主権国家が並び立つ秩序が始まったとされ、これをウェストファリア体制と呼びます。原則は 3 つです。
| 原則 | 意味 |
|---|---|
| 主権平等 | 大国も小国も法的には対等 |
| 内政不干渉 | 他国の国内問題に口を出さない |
| 領域性 | 国境の内側では、その国の政府だけが最高の権力をもつ |
ここまでできれば十分
この体系には「上位の権力がない」という性質(アナーキー)がついて回ります。そのため近代ヨーロッパでは、特定の国が突出しないよう他の国々が同盟を組みかえて力をつり合わせる勢力均衡(バランス・オブ・パワー)が発達しました。グロティウス『戦争と平和の法』(1625 年)は主権国家どうしを縛る国際法の考え方の出発点で、「国際法の父」と呼ばれます。
2. ウィーン体制と勢力均衡(19 世紀)
まずここだけ
フランス革命とナポレオン戦争の戦後処理のためのウィーン会議(1814〜15 年)は、オーストリア外相メッテルニヒが主導し、フランス外相タレーランが唱えた正統主義(革命前の王朝と国境に戻す)と勢力均衡を原則としました。会議後の国際秩序がウィーン体制で、支えた枠組みは 2 つです。
- 神聖同盟(1815 年):ロシア皇帝アレクサンドル 1 世の提唱。キリスト教の精神で君主が結束する宣言的なもの
- 四国同盟(1815 年、イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセン。1818 年にフランスが加わって五国同盟):革命の再発を防ぐ軍事的な同盟
ここまでできれば十分
ウィーン体制は自由主義とナショナリズムの運動を抑えつける保守的な体制でしたが、1830 年のフランス七月革命、1848 年の二月革命と各地の革命(諸国民の春)で揺らぎ、クリミア戦争(1853〜56 年)で列強どうしが戦ったことで大国の協調(ヨーロッパ協調)は事実上終わりました。
この時期のイギリスは、大陸に直接の領土的野心をもたず、強くなりすぎた国の反対側につく「バランサー」の役を果たしたとされ、「19 世紀ヨーロッパの勢力均衡」の典型例です。
3. ビスマルク外交から第一次世界大戦へ
まずここだけ
ビスマルクは 1871 年のドイツ統一のあと、フランスの復讐(普仏戦争の敗北とアルザス・ロレーヌの喪失)を恐れ、フランスを孤立させることを最優先にした同盟網を築きました。要はロシアをつなぎとめることです。
| 年 | 条約・同盟 | 相手 |
|---|---|---|
| 1873 年 | 三帝同盟 | ドイツ・オーストリア・ロシア |
| 1879 年 | 独墺同盟 | ドイツ・オーストリア |
| 1882 年 | 三国同盟 | ドイツ・オーストリア・イタリア |
| 1887 年 | 再保障条約 | ドイツ・ロシア(オーストリアと対立するロシアをつなぎとめる) |
1878 年のベルリン会議では露土戦争後のバルカン問題を「公正な仲介人」として調停しました。ビスマルク外交の特徴は、植民地よりヨーロッパの現状維持を優先し、ドイツが「満ち足りた国」であると示した点です。
ここまでできれば十分
1890 年、皇帝ヴィルヘルム 2 世がビスマルクを辞任させ、再保障条約の更新を拒否しました。行き場を失ったロシアはフランスに接近し、露仏同盟(1891〜94 年)が成立して「フランスの孤立」が崩れます。ヴィルヘルム 2 世は世界政策(海軍の増強・植民地の獲得・3B 政策)を進めてイギリスと対立しました。
「光栄ある孤立」をとっていたイギリスはドイツの台頭に対抗するため方針を変え、1902 年日英同盟、1904 年英仏協商、1907 年英露協商を結びました。こうして三国協商(英・仏・露。1 つの条約ではなく 3 つの組み合わせ)と三国同盟(独・墺・伊)が対立する構図ができあがります。
この時期は帝国主義の時代でもあります。1884〜85 年のベルリン会議(ビスマルク主催。1878 年のものとは別)でアフリカ分割のルールが決まり、1898 年のファショダ事件(英仏)、1905 年・1911 年のモロッコ事件(独仏)など植民地をめぐる衝突が続きました。「ヨーロッパの火薬庫」バルカン半島では 1912〜13 年のバルカン戦争を経て、1914 年 6 月 28 日のサラエボ事件(オーストリア皇太子夫妻の暗殺)から第一次世界大戦が始まりました。イタリアは三国同盟の一員でしたが、開戦時は中立、1915 年に協商側で参戦した点に注意します。
もう一歩(発展)
第一次世界大戦(1914〜18 年)は国民全体を動員する総力戦になりました。1917 年にロシア革命でソヴィエト政権が成立して戦線から離脱し(1918 年ブレスト・リトフスク条約)、同年アメリカが参戦したことで戦局が決まります。レーニンの「平和に関する布告」(無併合・無償金・民族自決)に対抗する形で、ウィルソンが 1918 年 1 月に14 か条の平和原則を発表しました。1918 年 11 月 11 日、ドイツの休戦協定調印で大戦は終わります。
4. ヴェルサイユ体制と国際連盟
まずここだけ
ウィルソン(アメリカ大統領)の14 か条は、秘密外交の廃止・海洋の自由・軍備縮小・民族自決・国際平和機構の設立を掲げました。同盟による勢力均衡が大戦を招いたという反省から、対立する国も 1 つの組織に入れて侵略国に全員で制裁する集団安全保障を打ち出したものです。
1919 年のパリ講和会議で結ばれたヴェルサイユ条約(対ドイツ)で、ドイツは全植民地の放棄、アルザス・ロレーヌの返還、軍備制限、巨額の賠償金を負わされました。条約の第 1 編が国際連盟規約で、1920 年 1 月に国際連盟が発足しました(本部ジュネーブ)。この戦後秩序がヴェルサイユ体制です。
ここまでできれば十分
の仕組みと弱点は、国際連合との比較で問われます。
| 国際連盟(1920 年) | 国際連合(1945 年) | |
|---|---|---|
| 提唱 | ウィルソンの 14 か条 | 大西洋憲章 → ダンバートン・オークス会議 |
| 本部 | ジュネーブ | ニューヨーク |
| 大国の参加 | アメリカは不参加(上院がヴェルサイユ条約の批准を否決)。ソ連は 1934 年に加盟し 1939 年に除名(フィンランド侵攻)。日本・ドイツは 1933 年に脱退を通告、イタリアは 1937 年に脱退 | 米・英・仏・ソ・中が最初から常任理事国 |
| 表決 | 総会・理事会とも全会一致 | 総会は多数決、安保理は大国一致(拒否権) |
| 制裁 | 経済制裁のみ。軍事制裁の規定はなく、連盟軍もない | 経済制裁と軍事的措置の両方 |
| 日本 | 常任理事国(英・仏・伊・日の 4 か国で出発) | 1956 年加盟 |
連盟規約は戦争そのものを禁止したわけではなく、紛争を裁判や理事会にかけてから 3 か月間は戦争に訴えないという「冷却期間」の仕組みでした。委任統治制度もこのとき始まり、日本は赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島を委任統治しました。
ヴェルサイユ体制のもう 1 つの柱は、東欧の民族自決による新独立国(ポーランド・チェコスロバキアなど)です。ただし民族自決はヨーロッパの敗戦国の領土にだけ適用され、アジア・アフリカの植民地には及びませんでした。この不徹底が中国の五・四運動や朝鮮の三・一運動(いずれも 1919 年)の背景になります。
もう一歩(発展)
賠償問題は 1920 年代の焦点でした。ドイツの支払い遅延を理由にフランス・ベルギーが 1923 年にルール占領を行い、ドイツは破局的なインフレに陥ります。アメリカの資金でドイツ経済を立て直すドーズ案(1924 年)、支払総額を減らすヤング案(1929 年)で緩和されましたが、「アメリカの資金 → ドイツの賠償 → 英仏の対米戦債返済」という資金の循環が世界恐慌で止まり、破綻しました。
5. ワシントン体制・ロカルノ条約・不戦条約 ── 1920 年代の協調
まずここだけ
アメリカは国際連盟には入りませんでしたが、アジア・太平洋では主導権を握りました。ワシントン会議(1921〜22 年)で結ばれた 3 つの条約をワシントン体制と呼びます。
| 条約 | 参加国 | 内容 |
|---|---|---|
| 四か国条約(1921 年) | 米・英・日・仏 | 太平洋の現状維持。これにより日英同盟は終了 |
| ワシントン海軍軍縮条約(1922 年) | 米・英・日・仏・伊 | 主力艦の保有比率を 5:5:3:1.67:1.67 に制限 |
| 九か国条約(1922 年) | 米・英・日・仏・伊・中など 9 か国 | 中国の主権尊重・門戸開放・機会均等 |
ヨーロッパでは 1925 年のロカルノ条約で、ドイツとフランス・ベルギーの国境の現状維持とラインラントの非武装が確認され、翌 1926 年にドイツが国際連盟に加盟しました(シュトレーゼマン・ブリアン・チェンバレンの協調外交)。
ここまでできれば十分
不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定、1928 年、パリ)は、国家の政策の手段としての戦争を放棄すると宣言した条約です。アメリカ国務長官ケロッグとフランス外相ブリアンの提唱で、当初 15 か国が調印し、日本も加わりました。歴史上はじめて戦争そのものを違法とした条約で、日本国憲法 9 条の文言にも影響したとされますが、自衛戦争は禁止されず、違反への制裁規定もないため、1930 年代の侵略を止められませんでした。
補助艦(巡洋艦など)の制限は 1930 年のロンドン海軍軍縮条約で決まり、日本ではこれが「統帥権干犯」問題を引き起こしました。日本は 1934 年にワシントン条約の廃棄を通告し、1936 年に両条約の効力が失われて軍縮体制は終わります。
6. 世界恐慌からブロック経済へ
まずここだけ
1929 年 10 月 24 日、ニューヨーク株式市場の暴落(暗黒の木曜日)から世界恐慌が始まりました。各国は自国産業を守るために関税を引き上げ(アメリカのスムート・ホーリー関税法、1930 年)、報復関税の連鎖で世界貿易は急減しました。ブロック経済とは、本国と植民地・勢力圏を 1 つの経済圏として囲い込み、域外には高い関税をかける政策です。
| 国 | 政策 |
|---|---|
| イギリス | 1931 年に金本位制を離脱。1932 年オタワ会議でスターリング・ブロック(イギリス連邦内の特恵関税) |
| フランス | フラン・ブロック |
| アメリカ | 1933 年からニューディール(ローズヴェルト)。善隣外交でラテンアメリカを囲い込む |
| 日本 | 円ブロック(満州・中国へ) |
| ドイツ・イタリア | 植民地や資源をもたない「持たざる国」として、武力による勢力圏拡大へ |
ここまでできれば十分
ブロック経済は「持てる国(英・仏・米)」と「持たざる国(日・独・伊)」の対立を深め、後者がファシズム・軍国主義のもとで侵略に向かう背景になりました。1933 年のロンドン世界経済会議は各国の利害が対立して失敗し、国際協調による恐慌対策はできませんでした。第二次世界大戦後のブレトン・ウッズ体制(IMF・世界銀行)と GATT(zi-03)は、このブロック経済への反省から生まれています。
7. 満州事変から第二次世界大戦へ ── 集団安全保障の崩壊
まずここだけ
| 年 | 出来事 | 国際秩序への意味 |
|---|---|---|
| 1931 年 | 満州事変(柳条湖事件) | 連盟はリットン調査団を派遣し、翌年の報告に基づき満州国不承認を決議 |
| 1933 年 | 日本が連盟脱退を通告(3 月。通告から 2 年後の 1935 年に発効)。ドイツも脱退(10 月) | 集団安全保障の担い手が抜ける。除名ではなく自ら脱退 |
| 1935〜36 年 | イタリアのエチオピア侵略 | 連盟は経済制裁を発動したが石油を除外するなど不徹底で、侵略を止められず |
| 1936 年 | ドイツのラインラント進駐(ロカルノ条約違反)、スペイン内戦開始、日独防共協定 | ヴェルサイユ体制の崩壊 |
| 1937 年 | 盧溝橋事件から日中戦争。イタリアも連盟を脱退 | 日独伊が枢軸側にそろう |
| 1938 年 | ドイツのオーストリア併合。ミュンヘン会談(英チェンバレンの宥和政策。ズデーテン地方の割譲を認める) | 侵略を認めて戦争を避けようとし、かえってヒトラーを増長させた。集団安全保障の失敗例 |
| 1939 年 | 8 月独ソ不可侵条約、9 月 1 日ドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦 | 英仏が対独宣戦 |
ここまでできれば十分
第二次世界大戦中の連合国の会談は、参加者と決定事項の組み合わせで問われます。「参加者に誰がいるか」で判別します。
| 年月 | 会談・文書 | 参加者 | 内容 |
|---|---|---|---|
| 1941 年 8 月 | 大西洋憲章 | ローズヴェルト(米)・チャーチル(英) | 領土不拡大・民族自決・貿易の自由・「一般的安全保障制度」の確立など 8 項目。国連構想の出発点 |
| 1942 年 1 月 | 連合国共同宣言 | 26 か国 | 大西洋憲章の原則を確認。「連合国(United Nations)」の名称の由来 |
| 1943 年 11 月 | カイロ宣言 | ローズヴェルト・チャーチル・蔣介石 | 日本の領土問題(満州・台湾の返還、朝鮮の独立) |
| 1943 年 11〜12 月 | テヘラン会談 | ローズヴェルト・チャーチル・スターリン(初参加) | 第二戦線(ノルマンディー上陸)の合意 |
| 1944 年 8〜10 月 | ダンバートン・オークス会議 | 米・英・ソ・中 | 国連憲章の原案 |
| 1945 年 2 月 | ヤルタ会談 | ローズヴェルト・チャーチル・スターリン | ドイツの分割占領、安保理の拒否権、ドイツ降伏後 3 か月以内のソ連の対日参戦(秘密協定。南樺太・千島の引き渡し) |
| 1945 年 4〜6 月 | サンフランシスコ会議 | 50 か国 | 国連憲章に署名(6 月 26 日) |
| 1945 年 7〜8 月 | ポツダム会談 | トルーマン・チャーチル(途中からアトリー)・スターリン | ドイツの戦後処理。ポツダム宣言(7 月 26 日、米・英・中の名で発表。ソ連は 8 月 8 日の対日宣戦後に加わる)で日本に無条件降伏を要求 |
ヤルタ会談で決まった米ソの勢力圏の線引きは、そのまま冷戦の出発点になります(ヤルタ体制)。日本は 1945 年 8 月 14 日にポツダム宣言の受諾を通告し、9 月 2 日に降伏文書に調印しました。
8. よくある間違い
| 間違い | 正しくは |
|---|---|
| ウェストファリア条約で皇帝権が強化された | 諸侯に主権が認められ、皇帝の権威は形だけに |
| ウィーン会議はビスマルクが主導した | メッテルニヒ。ビスマルクは 1870〜80 年代 |
| 三国同盟は独・墺・露 | 独・墺・伊。ロシアが入るのは三帝同盟・再保障条約 |
| 三国協商は 1 つの条約で成立した | 露仏同盟・英仏協商・英露協商の3 つの組み合わせ |
| 国際連盟はアメリカが加盟して運営した | 提唱はウィルソンだが、上院の反対で不参加 |
| 国際連盟の総会は多数決、軍事制裁の規定あり | 全会一致・経済制裁のみ。多数決と軍事的措置は国連 |
| ワシントン会議で国際連盟が設立された | 連盟はパリ講和会議(ヴェルサイユ条約第 1 編) |
| 四か国条約で日英同盟が更新された | 日英同盟は終了 |
| 不戦条約はすべての戦争を禁止した | 自衛戦争は除外、制裁規定なし |
| 満州事変後、日本は連盟から除名された | 自ら脱退を通告(1933 年)。除名はソ連(1939 年) |
| ミュンヘン会談は集団安全保障で侵略を抑えた | 侵略を認める宥和政策の典型 |
| ポツダム宣言は米・英・ソの名で発表 | 当初は米・英・中。ソ連は対日参戦後に参加 |
| カイロ宣言にスターリンが参加 | 蔣介石。大西洋憲章は 1941 年(1945 年ではない) |
9. 覚え方の型
- 国際秩序は「戦争 → 講和会議 → 体制」の組で覚える:三十年戦争 → ウェストファリア、ナポレオン戦争 → ウィーン、第一次世界大戦 → ヴェルサイユ・ワシントン、第二次世界大戦 → ヤルタ・国連
- ビスマルクの同盟は「ロシアをつなぎとめる」。ロシア入りの同盟(三帝同盟・再保障条約)が切れた瞬間に露仏同盟ができた、と因果で覚える
- 国際連盟の弱点は「米不参加・全会一致・経済制裁のみ」の 3 語セット
- 1920 年代の条約は年で並べる:21〜22 ワシントン → 25 ロカルノ → 28 不戦 → 30 ロンドン
- 大戦中の会談は参加者で判別:蔣介石ならカイロ、スターリン初参加ならテヘラン、拒否権・対日参戦ならヤルタ、トルーマンならポツダム
10. 小テストへ
→ 小テスト(zi-01)
関連する単元
- 前提:zj-07 世界史 現代(二つの大戦・冷戦)、kk-09 国際政治と国際経済(高校公共)
- 次に進む:zi-02 国際政治史②(冷戦の始まりから終結・ポスト冷戦)、zi-03 国際機構(国連の仕組み・EU・地域機構・国際経済機構)
- 同じ考え方を使う:zp-07 国際政治の理論(勢力均衡・の理論)、zk-03 国際政治(国連・安全保障・国際法)、zi-04 安全保障と軍縮・国際法
参考資料
- 国際連盟規約、ヴェルサイユ条約、(1928 年)、大西洋憲章(1941 年)、ポツダム宣言(1945 年)── 条文は外務省「日本外交文書」・国立国会図書館「日本国憲法の誕生」資料などで参照できる
- 外務省「国際連合の成り立ち」(https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jp_un/ )
- 国連広報センター「国連の歴史」(https://www.unic.or.jp/ )
- 有賀貞ほか編『講座 国際政治』、細谷雄一『国際秩序』、高坂正堯『古典外交の成熟と崩壊』、E. H. カー『危機の二十年』(標準的な文献)
- 人事院「国家公務員採用一般職試験(大卒程度試験)受験案内」── 専門試験の出題分野(国際関係)
受験のしらべ / https://juken-shirabe.com/koumuin/seiji/zi-01/ / 更新 2026-09-20